【81】石ノ森章太郎(漫画家)は、こんなことを言い残しています。
『諸君、体の動くうちが華だぞ。頭の中で考え込んでいる間に、時間はどんどん過ぎてしまうのだから。』
私は、石ノ森章太郎です。
私がこう言ったのは、若い人たちだけに向けた言葉ではありません。実のところ、これは私自身が生涯を通して感じ続けた“創作の本質”を表したものです。
人は、何かを始めようとするとき、「もっと準備してから」「もう少し考えてから」と先延ばしにしてしまいがちです。完璧さを求めて動けなくなることもある。
しかし、創作とは本来、手を動かす中で形になっていくものです。アイデアは机の上だけで熟成させるものではなく、実際に描き、作り、試しながら育っていく。そうして初めて、思考が現実に転じ、作品として命を帯びてゆくのです。
私が漫画家として駆け抜けた日々も、決して“余裕ある時間”の中にあったわけではありません。
いつも締切に追われ、体力の限界と戦いながら、次の作品、次のテーマへと意識を向け続けていました。しかし振り返れば、あの「動き続けた時間」こそが、私の人生を豊かにし、多くの作品を生み出す源になっていました。
もしあの頃、「もっと考えてから描こう」と立ち止まっていたら、『サイボーグ009』も『仮面ライダー』も生まれなかったでしょう。
時間というものは、残酷なほど容赦なく過ぎていきます。
若さや体力だけの問題ではありません。気力、情熱、好奇心・・・それらが自然と湧き出る瞬間にも限りがあり、その“動ける時期”が人生の宝です。
だからこそ、迷ったときはまず動いてみること。失敗してもいい。描き直せばいいし、やり直せばいい。だが、動かなければ何も始まらないし、何も残らない。
諸君、考えることは大切だ。しかし、考えるだけでは世界は変わらない。
自分の手で、自分の足で、自分の人生をつくっていくのです。体の動くうちに、一歩を踏み出しなさい。
それが、未来への扉を開く唯一の方法なのだから。
【82】ラルフ・ワルド・エマーソン(アメリカの思想家)は、こんなことを言い残しています。
『重要なのは人生の長さではない。人生の深さだ。』
私は、ラルフ・ワルド・エマーソンです。
私がこのように述べたのは、人々が往々にして“時間の量”ばかりを気にしてしまい、“その時間をどう生きるか”という本質を見落としがちであることに気づいたからです。
長く生きることは確かに望ましいことでしょう。しかし、何十年という歳月をただ惰性で過ごすのであれば、そこにどれほどの意義があるでしょうか。
私が重視したのは、人生に刻まれる「質」、すなわち深さです。
人は、一瞬の体験によって方向を変え、心を揺さぶられ、価値観を刷新することがあります。深い洞察や真の感動は、必ずしも大量の時間を必要とはしません。
むしろ、心が研ぎ澄まされ、魂が生きていると感じる瞬間こそが、人生を豊かにするのです。
深さとは、単に知識を蓄積することではありません。
他者への理解、自然への敬意、そして自分自身との誠実な対話を通して得られる内面的な成長のことです。人は自分の内側を見つめ、そこから湧き出る思索に耳を傾けることで、同じ日々の中にも新しい意味を見いだせます。
これは、私が超越主義という思想を通じて伝えようとした「内なる神性」への目覚めにも通じるものです。
また、深さは行動によっても育まれます。
心を込めて働き、真摯に人と向き合い、自分の信念を貫きながら日々を積み重ねる。その一つひとつが、人生という大地に刻まれる“深い足跡”となる。どれだけ長く生きたかではなく、どれだけ真剣に生きたかが、人生の価値を決めるのです。
人生の深さは他者の評価で測れるものではありません。
それは自らの心の中にのみ存在する、静かな、しかし揺るぎない羅針盤のようなものです。今日がどれほど短く、忙しく、些細に見える日であっても、その中に意味と気づきを見つけようとする意志が、人生に深みを与えます。
だからこそ私はこう伝えたいのです。人生をただ延ばすことに心を奪われるのではなく、今この瞬間をより豊かにするために、あなたの魂を目覚めさせなさい。
深く生きる者の人生は、たとえ短くとも、永遠に響く価値を持つのだから。
【83】ゴッホ(フランスの画家)は、こんなことを言い残しています。
『「絵になる風景」を探すな。よく見ると、どんな自然でも美しい。』
私は、ゴッホです。
あなたがたはしばしば、「絵になる風景」を探そうとします。特別で、壮大で、誰が見ても美しいと感じるような光景を求めて、遠くへ旅に出たり、有名な場所を訪れたりする。
しかし、私は長い時間、自然の中で絵筆を握りながら気づいたのです。美しさとは、遠くにあるのではなく、すぐ足元に息づいているものだと。
私がアルルの畑で見たのは、観光客が喜ぶような壮大な景色ではありませんでした。
傾いた農家、乾いた土の匂い、風に揺れるただの草。それらは決して「特別」ではありません。しかし私は、そこに澄んだ光の粒が流れ込むのを見た。草の影が揺れ、風が色を変え、太陽がほんの数秒だけ風景に魔法をかける瞬間を感じたのです。
だから私は言いました。「『絵になる風景』を探すな。よく見ると、どんな自然でも美しい。」と。
この言葉の意味は、単に芸術について語ったものではありません。これは“見る”という行為そのものに対する私なりの信念です。
人はしばしば、「もっと特別なものを」「もっと輝かしいものを」と外側にばかり目を向けます。けれど、本当に価値あるものは、注意深く見なければ決して姿を現しません。自然も、人も、日々の暮らしも同じです。深く見つめたとき、初めて光ります。
私は、自分の絵がうまく売れず、理解されず、孤独の中で絵を描き続けました。
それでも筆を置かなかったのは、私の目に映る世界が、誰に否定されようとも、どうしようもなく美しかったからです。
美しさを見抜く目は、外の世界を探し回ることで得られるものではありません。心の向け方で世界が変わるのです。
もしあなたが今、「特別な何か」を探しているなら、どうか立ち止まってください。
あなたのすぐそばにある光景を、少しだけ長く、少しだけ丁寧に見つめてみてください。退屈な道端の草にも、小さな石ころにも、誰も気づかない形や色が宿っています。
それらを見つけたとき、あなたの世界は以前より豊かに、温かくなるでしょう。
美しさとは、探すものではない。気づくものなのです。
【84】マハトマ・ガンジー(インドの独立指導者)は、こんなことを言い残しています。
『速度を上げるばかりが、人生ではない。』
私は、マハトマ・ガンジーです。
私がそのように語ったのは、単なる生き方の教訓ではありません。これは、私自身の歩みから生まれた、深い反省と気づきの言葉です。
人はしばしば、早く進むこと、効率よく成果を上げることを「良いこと」だと考えます。しかし、私はインドの独立を目指して歩んだ長い年月の中で、速度よりも大切なものがあることを何度も思い知らされました。
皆さんは、急ぐことで見失っているものがありませんか。
人生を走り抜けるあまり、自分の心の声、大切な人の存在、世界が見せてくれる静かな美しさに気づけなくなってはいないでしょうか。私は、急ぎ過ぎる人間は、しばしば自分自身から遠ざかっていくのだと感じます。
速さを求めるほど、心は焦り、判断は粗くなり、周囲への思いやりも薄れてしまうものです。
私の人生の歩みは、決して早いものではありませんでした。
歩くことを選び、語り合うことを選び、人々の苦しみを丁寧に見つめることを選びました。ゆっくり進むからこそ、理解が深まり、共感が生まれ、変化が根を下ろすのです。速度を優先していたら、私は本当に大切なものを見失っていたでしょう。
人生とは、競争ではありません。
早く進んだからといって、豊かな人生になるわけではないのです。むしろ、立ち止まり、観察し、心を澄ませることで初めて見えてくる真実があります。あなたが歩く道の上には、何気ない風景や、思いがけない出会い、深い学びが落ちています。
しかし、急ぎ足の人は、それを拾うことができません。
もし今、あなたが焦りの中にいるのなら、どうか一度深呼吸をしてください。人生は、スピードで競うものではないのです。
ゆっくりであっても、一歩一歩を誠実に積み重ねれば、心は強く、歩みは確かなものになります。速さはときに、あなたを遠くへ運ぶでしょう。けれど、確かな目的地へ導くのは、心の落ち着きと、誠実な歩みです。
どうか覚えていてください。
人生の価値は、どれほど早く走ったかではなく、どれほど真実に向き合い、どれほど深く人を愛し、どれほど豊かに一歩を踏みしめたかで決まるのです。
ゆっくり進んでも構わない。大切なのは、自分の魂を失わずに前へ進み続けることなのです。
【85】寺山修司(劇作家)は、こんなことを言い残しています。
『明日何が起こるか分かってしまったら、明日まで生きる楽しみがなくなってしまうことだろう。』
私は、寺山修司です。
私がこの言葉を言ったのは、決して人生を投げやりに語ったわけではありません。むしろ、未知であるがゆえに人生は輝き、曖昧であるがゆえに私たちは歩み続けられるという、ある種の祈りのような想いを込めた言葉なのです。
人間というのは、未来を知りたがる生き物です。成功するのか、失敗するのか。愛されるのか、拒まれるのか。幸福にたどり着くのか、途方に暮れるのか。私たちはいつも答えを欲しがる。
けれど、もしその答えが最初から明らかで、明日が完全に予測できるものであったとしたらどうでしょうか。私は、きっと退屈という名の砂漠が心に広がってしまうのではないかと思うのです。
旅の途中にこそ、人生の面白さは潜んでいます。
道に迷った先で出会う風景や、思わぬ人物との邂逅、予定外に転がり込んでくる偶然。それらこそが、私たちの心を震わせ、明日へと足を運ばせる“物語”の源泉です。
台本の結末を知りながら芝居を観るのも悪くはありませんが、人生そのものがあらかじめ書かれた台本のように確定していたら、私は舞台に立つ気力すらなくしてしまうでしょう。
生きるという行為は、謎掛けに似ています。「次はどうなるのだろう?」という問いがあるから、人は息をし、動き、考える。予測できない明日があるからこそ、今日の瞬間が光り出す。もし明日が確定した数字のように整然と並べられていたら、そこに喜びの跳ねる余地はありません。
私は、人生の価値とは「明日への不確かさ」を抱えながら、それでも進んでいく勇気の中に宿るものだと思っています。
予定調和を壊し、常識を裏返し、枠を飛び越える・・・そうした瞬間にこそ、人間は自分の生を強く感じるのです。
だからこそ、未来が曖昧であることを恐れなくていい。むしろ、分からないからこそ、明日はあなたを魅了する力を持ち続けるのです。不安を抱えたままで構わない。その不安すら、明日にたどり着くための燃料に変わることがあります。
明日が見えないことは、決して欠陥ではない。
人生という芝居に残された、最大の自由であり、最大のロマンなのです。
【86】東井義雄(教育者)は、こんなことを言い残しています。
『生きている、健康である、手が動く、足で歩ける、目が見える、耳が聞こえる。この当たり前の中に、ただ事ではない幸せがある。』
私は、東井義雄です。
私は長く教師として子どもたちと向き合う中で、「幸せ」というものが、どれほど見落とされやすく、どれほど身近に隠れているかを痛感してきました。だからこそ私はその言葉を言いました。
教師として教室に立っていると、子どもたちはよく「もっと欲しい」「もっとできるようになりたい」と未来の幸せを追いかけます。それ自体は素晴らしいことです。
しかし一方で、人は “すでに持っている幸せ” には驚くほど鈍感です。朝、目が覚めて歩けること。友だちの声が聞こえること。今日も呼吸をし、笑い、学べること。それらは決して当たり前ではありません。どれかひとつ欠けただけで、生活はまったく別の姿になります。
私は村の子どもたちと毎日を過ごしながら、彼らが時折見せる気づきに心を動かされました。
雨の日に外で遊べないことを嘆いていた子が、ふと「雨の音ってきれいだね」と言ったことがあります。別の子は、病気で寝ていた日が続いたあと、「歩けるってすごいね」と目を輝かせました。大人が忘れてしまった“当たり前の奇跡”を、子どもたちは時に鋭く見抜くのです。
私は、その気づきを大人こそ取り戻すべきだと思っています。
健康に働けること、両手で道具を持てること、誰かの声を聞いて返事ができること。それらは幸福の“最低条件”ではありません。人生の根っこにある、計り知れない恵みなのです。
しかし、これらの幸せは静かで、主張しません。贅沢や成功のように派手に光らないため、人はすぐに慣れてしまい、価値を見失うのです。だからこそ、私は“当たり前”の中にこそ、人生の一番大きな宝が眠っているのだと伝えたかった。
もしあなたが今、不満や不安の中にいるのなら、ぜひ一度立ち止まり、あなたの体が今日できていることを数えてみてください。
息をしている。指が動く。空が見える。誰かの声が聞こえる。これらがひとつでもあるなら、あなたの人生にはすでに、深い幸せの土台が揃っています。その上で、さらに何を築くかは、あなた自身が選べるのです。
幸福は遠くにはありません。毎日の“当たり前”の中に、最初から息づいているのです。
【87】デール・カーネギー(起業家)は、こんなことを言い残しています。
『この世は興味あるもので満ち満ちている。こんな素晴らしい世界で、だらだらと人生を送るのはもったいない。』
私は、デール・カーネギーです。
私がそのように語ったのは、人々を急かすためではありません。むしろ、人間が本来備えている“好奇心”という力をもう一度思い出してほしかったからです。
人生を生きる喜びは、外側から与えられるものではなく、心の中に湧き上がる興味と関心から生まれるのです。
私は人生のあらゆる場面で、人は「興味」を失ったときに老いていくのだと感じました。年齢ではありません。挑戦をやめ、学ぶ意欲をなくし、新しい出会いや発見に背を向けたとき、人は心の活力を失ってしまうのです。
逆に、どれほど年を重ねても、目を輝かせて何かに興味を持つ人は、いつまでも若々しく、情熱を燃やし続けることができます。
私が「だらだらと人生を送るのはもったいない」と言ったのは、あなたにプレッシャーをかけるためではありません。
この世界が、あなたの想像以上に素晴らしい可能性で満ちていることを知ってほしかったからです。道ばたの花にも、人との会話にも、本の一行にも、人生を変える種が潜んでいます。それらは、興味を持つ者にだけ姿を現します。
興味とは、才能よりも強い武器です。
興味があるから学びたくなる。学ぶから成長する。成長するから自信が生まれる。そして自信が、さらに新しい世界へあなたを押し出してくれる。この循環こそが、人が幸福へ向かう自然な軌道なのです。
私は、多くの人々を見てきました。
悩みや不安を抱え、人生が停滞したと感じる人は、「興味」というエンジンが眠ってしまっていることが多いものです。しかし、一度そのエンジンに火がつけば、人は驚くほど軽やかに前へ進み始めます。
小さなことで構いません。今日読んだ記事の一文、見知らぬ人の笑顔、やってみたいと思った仕事や趣味。そこに心が動いたなら、その小さな動きを大切にしてください。
あなたの人生は、あなたが関心を向けた方向に広がり続けます。この世界は、探そうと思えば無限の興味と発見であふれている。だから、どうか心の目を閉じないでください。
人生は短い。けれど、その短さを嘆く必要はありません。心が興味を持ち続ける限り、人生はどこまでも豊かに、どこまでも新しくなります。
この素晴らしい世界を、ただ眺めて通り過ぎるだけで終わらせるのは、あまりにも惜しい。
どうか、あなたの興味が指す方向へ、今日一歩だけでも踏み出してください。
そこから、新しい人生が始まるのです。
【88】ソクラテス(ギリシャの哲学者)は、こんなことを言い残しています。
『人は食うために生きるのではない。生きるために食うのである。』
私は、ソクラテスです。
私が言ったのは、ただ生活のあり方を説いたのではありません。これは、人間が本来向き合うべき“生の目的”についての、私の哲学そのものです。
私たちは、衣食住を整え、日々を生き延びるために何かを食べ、働き、休みます。しかし、それらはあくまで「生きるための手段」に過ぎません。
ところが、多くの人々はいつのまにか手段を目的としてしまい、富を求め、快楽を追い、腹を満たすことばかりに心を奪われてしまいます。私はそれを嘆きました。なぜなら、人間はもっと高い目的を持って生きることができる存在だからです。
では、その「高い目的」とは何か。それは、魂をよりよく育てることです。
善く生き、真理を探求し、正しく判断し、美しいものを感じ取り、徳を磨く。それこそが、人間が生まれてきた意味であり、人生の本質だと私は考えています。
もし食べることや快楽を追うことに人生が支配されてしまえば、魂は鈍り、本来向かうべき道を見失ってしまうでしょう。
私はアテナイの人々に問い続けました。「あなたは、何のために生きているのか?」と。答えられない者は多かった。働き、食べ、楽しみ、また働き……その繰り返しに疑問を抱くことなく、ただ日々をこなしているだけの人がどれほど多かったことか。
しかし、人間はただ生き延びるためだけに存在しているのではありません。
真の意味で生きるとは、内なる魂を目覚めさせ、より善い人間へと近づく努力を続けることです。そのためにこそ、身体を整え、食事をとり、休息をとる必要がある。
つまり、食べることは目的ではなく、「もっと大切なもののために必要な準備」に過ぎないのです。
あなたが食卓に向かうとき、あるいは日々の労働に向かうとき、どうか自分に問いかけてください。「私は何のために生きているのか」と。もしその答えを探し始めたなら、あなたの魂はすでに目覚めかけています。
生きる目的は、腹を満たすことではない。魂を満たすことだ。私はそう信じています。
そして、そのために食べ、暮らし、学び、問い続けるのです。
それこそが、人間として誠実に生きる道なのです。
【89】ハーバート・スペンサー(イギリスの哲学者)は、こんなことを言い残しています。
『人生は石材である。これで神を彫ろうが悪魔を彫ろうが各人の意のままだ。』
私は、ハーバート・スペンサーです。
私が述べた言葉は、人間の人生には“素材としての中立性”があり、どのように形づくるかは本人に委ねられている、という私の根本的な思想を表したものです。
人生は、最初から美しく整った彫像として与えられるのではありません。粗く、扱いにくく、時に割れやすい“石材”として与えられます。しかし、その石材をどう扱うかによって、生み出される像はまったく別のものになります。
私は、生物学や社会学、倫理学を研究する中で、一つ強く確信したことがあります。
それは、人間の成長や人格の形成は、環境や遺伝だけに規定されるものではなく、「選択」と「努力」によって大きく変わるということです。
どれほど恵まれた環境にあっても怠惰に生きれば、その人生は崩れた像になるでしょう。逆に困難の中にあっても、志と工夫をもって生きれば、見事な彫像が形を得ることがあります。
人生の“素材”は、平等ではありません。
硬すぎる石、脆い石、形の悪い石を受け取る者もいます。しかし、どの石であっても、まったく彫る余地がないということはありません。
むしろ、不完全な素材ゆえに工夫が求められ、苦心の末に生まれる像には、独自の味わいが宿るものです。私は多くの人生を観察し、そこに普遍的な原理を見ました。それが、人は誰しも“自分の人生を彫っている”という事実です。
重要なのは、「どんな石を受け取ったか」ではなく、「その石をどう扱うか」です。
怒りや絶望を刻み込めば、人生は悪魔のような姿になるでしょう。しかし、忍耐、知恵、愛、努力を刻み込めば、同じ石でも神のごとき品格ある像へと変わります。
つまり、人生の価値は素材の良し悪しではなく、彫り手の意志と姿勢によって決まるのです。
もし今、あなたが自分の人生の石材を見て、「粗い」「欠けている」「思い通りの形ではない」と嘆いているのなら、どうかこう考えてください。それでもなお、その石を彫る手はあなたにある、と。あなたの選択は、今この瞬間から人生の輪郭を変え始めます。
人生とは、完成された像を受け取るのではなく、完成させるための素材を受け取ることです。
その石を神にするのか、悪魔にするのか・・・
それは、他の誰でもない、あなた自身の意志によって決まるのです。
【90】ジャン・ジャック・ルソー(スイスの哲学者)は、こんなことを言い残しています。
『生きるとは呼吸することではない。行動することだ。』
私は、ジャン・ジャック・ルソーです。
私が言った言葉の意味は、人間の本質とは“ただ存在すること”ではなく、“自らの意志で動き、世界に働きかけること”にこそ宿るからです。
呼吸は生命の条件に過ぎません。しかし、人生の価値はその条件の上に、何を選び、何を成し、何を生み出すかによって決まります。
私は長く人間社会を観察し、人々が時として「生きている」と言いながら、実は“ただ時を消費しているだけ”の状態に陥ることを憂いてきました。呼吸し、食べ、眠る。それは動物にとっては十分かもしれません。
しかし人間には、より高い目的があるはずです。それは、意志を持ち、選び、行い、人生を主体的に形づくることです。
私が「行動することだ」と強調したのは、行動こそが人間を自由へ導く手段だからです。
考えているだけでは、世界は変わらない。願っているだけでは、自分も変わらない。人は行動することによって初めて、自分の力を知り、自分の限界に触れ、そして何より、自分の人生を“自分自身のもの”として引き受けることができる。
行動した者は失敗もします。しかし、失敗から学んだ者だけが前へ進む資格を持ちます。
行動を恐れ、ただ安全な場所にとどまっている者は、確かに傷つかないかもしれません。だがそれは、危険を避けた代わりに成長を捨てているのです。
人の心は、挑戦せず、努力せず、願望を胸の奥に押し込めたままでは、決して満たされることはありません。
私は自然の中で生きることを愛し、自由を尊びました。自然は教えてくれます。鳥は飛ばねば空を知ることはできない。川は流れねば形を失う。人間もまた同じです。
行動しない人は、世界を知らず、自分を知らず、人生が持つ豊かな可能性に触れることができません。
もしあなたが今、胸の奥に何かの願い、関心、夢を抱いているのなら、その芽を行動によって育ててください。
どんな小さな一歩でも構わない。その一歩が、あなたの人生を“ただ呼吸しているだけの時間”から、“主体的に生きる時間”へと変えるのです。
生きるとは、時間を過ごすことではない。自らの意志で選び、動き、世界に跡を残すことです。
呼吸は命を維持する。しかし、行動こそがあなたの人生を輝かせる・・・私はそう信じています。
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