【51】シャーロット・ブロンテ(イギリスの作家)は、こんなことを言い残しています。
『困難でない仕事というものは、大抵価値がないものです。』
こんにちは、シャーロット・ブロンテです。
今日は、私が残した言葉である「困難でない仕事というものは、大抵価値がないものです」という言葉について、少しゆっくりお話ししましょう。
私が生きた19世紀の社会では、特に女性が真に価値ある仕事に従事することは容易ではありませんでした。社会の慣習は女性を家庭に留め、学びや創作の場を制限しようとしました。
そのような環境の中で筆をとり続けることは、決して平坦な道ではありませんでした。しかし、その困難さこそが、私にとって創作の価値を確かなものにしたのです。
人がある仕事に向き合うとき、その過程が容易であればあるほど、心を揺さぶるほどの達成感を得ることは難しいでしょう。
努力を必要としない仕事は、心を磨くことも、精神を鍛えることも、魂を揺り動かすこともありません。私が言いたかったのはまさにその点です。
困難は価値の敵ではなく、価値の証明なのだということ。
『ジェーン・エア』を書き上げたときのことを、今でもよく覚えています。体調は優れず、家庭の事情も心を重くしていました。出版界も、女性が本格的な文学作品を世に出すことに慣れておりませんでした。
ですが、そのような困難が積み重なったからこそ、物語の一行一行が深まっていったのです。ジェーンの内にある強さや自立心は、私自身が困難と向き合った日々から生まれてきました。
価値ある仕事とは、単に結果が称賛されるものではありません。
困難にじっくりと向き合い、逃げずに耐え、最後まで歩み続けることでのみ、その仕事は真の光を放ちます。人の胸に響く創作や、社会に影響を与える仕事、心を成長させる挑戦は、必ず試練と結びついているものです。
あなたが今、何かの困難に向き合っているのだとしたら、その苦しみは決して無駄ではありません。それは価値あるものを生み出している最中の証拠なのです。
どうか恐れず、その道を歩み続けてください。困難という試練を越えた先にこそ、あなたにしか手にできない光が必ず待っています。
【52】アリストテレス(ギリシャの哲学者)は、こんなことを言い残しています。
『自分に勝つことこそ、最も難しい勝利。』
こんにちは、アリストテレスです。
今日は、私が残した「自分に勝つことこそ、最も難しい勝利」という言葉について、私自身の語りとして少し丁寧にお話ししてみましょう。
私が哲学に没頭し、人間の行いについて深く考えるようになってから気づいたことがあります。
それは、人が外の世界に勝利するよりも、「自らの内側」すなわち欲望、怠惰、怒り、恐れ、過信、憂い・・・これらを制御することが、はるかに難しく、そして価値ある挑戦だということです。
私たちは、しばしば外の敵に目を向けます。
競争相手や社会の障害、運命の不運など、外側に立ちはだかるものは分かりやすく、戦いやすい。しかし、もっと手強く、もっと目に見えにくい敵が内側に潜んでいます。それは“自分”という存在そのものです。
例えば、快楽に流されそうになる時。怒りが胸に湧いた時。恐れが足をすくませる時。あるいは「自分はすでに十分だ」と慢心が心に芽生えた時。
これらは外部の力ではなく、あなた自身の心が生み出す力です。だからこそ、その心を整え、正しい方向へ導くことは、技術や武力を使った勝利よりも一層難しいのです。
私が「中庸」を哲学の中心に据えたのも同じ理由です。
過剰でも不足でもなく、適度であることを保つのは簡単ではありません。自分の感情や欲望を理解し、それに飲み込まれず、しかし否定しすぎることもなく扱うには、長い鍛錬が必要です。
剣を振るう戦いよりも、名声を得るよりも、国家を治めるよりも、自分自身の心を治めることの方がはるかに難しい・・・私はその事実を、人々に伝えたかったのです。
では、なぜ自分に勝つことが「最も価値ある勝利」なのか。
それは、この勝利があなたの人生全体の基盤となるからです。自分を制御できる者は、怒りに支配されず、恐れに振り回されず、欲望に溺れません。そうした人は、どんな状況でも正しく判断し、行動し、周囲に善き影響を与えることができます。
国家を治めようとする者も、他者を教え導く者も、まず自分の心を治められなければ、本当の意味での偉大さには到達できません。
もしあなたが今、自分自身との葛藤に苦しんでいるのだとしても、それは恥ではありません。それはあなたが人間であることの証であり、より高い境地へ進むための道のりです。
どうか焦らず、しかし怠らず、自分の心を観察し、丁寧に向き合ってください。
自分に勝つこと、それは確かに難しい。しかし、その勝利こそが、あなたの人生を最も輝かしいものへと導くのです。
【53】諸井貫一(元・太平洋セメント社長)は、こんなことを言い残しています。
『全員反対したことだけが、一考に値する。経営者はこうしたマイノリティの論理を駆使しなければならない。』
こんにちは、諸井貫一です。
今日は、私が述べた「全員反対したことだけが、一考に値する。経営者はこうしたマイノリティの論理を駆使しなければならない。」という言葉について、私自身の語りとしてお話ししてみましょう。
企業というものは、多くの人の知恵と力によって動いています。しかし、人数が増え、組織が大きくなるほど、どうしても“多数派の意見”が正しいとみなされやすくなるものです。
会議で全員が賛成する案は、一見すると安全で合理的に見えます。誰も反対していないということは、リスクが小さく、安心感がありますからね。
しかし、私は経営の現場でこう確信するようになりました。
全員が賛成する案は、往々にして「すでに誰もが思いつく、無難で、低リスクだが低収益な案」であると。逆に、全員が反対する案こそ、視点が一段高いか、未来を大胆に見据えた案である可能性があるのです。
もちろん、何でもかんでも逆張りすればよいという意味ではありません。
ここで重要なのは、「組織の常識では測れない価値が潜んでいる可能性がある案」に経営者だけは耳を傾けなければならない、ということなのです。
経営とは、ときに孤独なものです。多数派はいつも「安全」を求めます。
しかし、企業を変革し、新しい市場を切り開くのは、いつだって少数派の視点であり、常識を疑う姿勢です。全員が反対するような案は、結局のところ「これまでの延長線上にはない」という点で、変革の芽を秘めている。
だからこそ、経営者はそこに価値の可能性を嗅ぎ取らなくてはならないのです。
私が申し上げたいのは、こういうことです。
全員が反対するような提案を前にした時、経営者だけは恐れず、条件を整え、角度を変えて眺め直し、そこに潜む突破口を探るべきだ。多数派が恐れる未知の領域こそ、企業の未来を開く可能性があるのです。
現場の声も、分析データも、専門家の意見も確かに重要でしょう。しかし、それらを総合した結果として生まれる「全員一致」は、時として挑戦を止め、変革を鈍らせます。
だからこそ、全員が反対した案があれば、経営者はそこに特別な目を向ける義務がある。なぜなら、その案には他の誰も気づいていない価値が眠っているかもしれないからです。
経営とは、未知への航海です。
多数派が「危険だ」と言う海域にこそ、まだ地図にない島がある。
私はそのことを、この言葉に込めたつもりです。
【54】松下幸之助(パナソニック創業者)は、こんなことを言い残しています。
『二位なったということは、まだ先に目標が残されている。』
こんにちは、松下幸之助です。
今日は、ワシが申しました「二位になったということは、まだ先に目標が残されている」という言葉について、ワシ自身の語りとして改めてお話ししてみたいと思います。
世の中では、二位という結果を「惜しかった」「もう少しだった」と受け取ることが多いでしょう。しかし、ワシはそうは考えません。二位とは、決して敗北ではなく、「まだ伸びる余地がある」と教えてくれる、実に価値のある結果なのです。
一位になった時、人はどうしても満足してしまう。
頂点に立ったという達成感が心に広がり、努力の歩みが一度止まりがちになります。しかし二位は、もう一歩届かなかった。その悔しさがある反面、今の自分に何が足りないか、何を改善すべきかがはっきりと見えてくる。
つまり、二位とは「これからまだ成長できる」という余白の存在を教えてくれる順位なんです。
ワシの経営人生も、まさにそうでした。うまくいった時よりも、うまくいかなかった時のほうが、はるかに大きな学びをくれました。
成功より失敗に、勝利より苦杯に、改善へのヒントが眠っている。二位という順位もその一つです。一位になれなかったという現実が、ワシらにもう一度腹をくくって努力を重ねる力を与えてくれるのです。
また、二位という結果には「まだ上がある」という事実がはっきりと示されています。
人間は、どれだけ努力しても「これで十分だ」と思った瞬間に成長が止まってしまいます。しかし二位であれば、視線を向ける先がまだある。
目標があるということは、人生にとっても経営にとっても、実にありがたいことなんです。
そしてもう一つ大切なのは、「二位は悪い順位ではない」ということ。
二位に入るというのは、それ自体が努力と実力の証拠。それでもなお一位になれなかったということは、ほんの少しだけ工夫の余地が残っているというだけのことです。その余地こそが、次の成長の糧になる。
ワシは生涯、何事も前向きに捉えることを大切にしてきました。
二位もまた、前向きに見れば「伸びしろの証」になる。だからこそ、二位で落ち込む必要はない。むしろ、「まだ目標が残っている」ということを喜びに変えて、次の一歩を踏み出してほしいのです。
二位とは、終わりではなく、始まりです。そのことを、この言葉に込めたのです。
【55】ヨハン・ゲーテ(ドイツの詩人)は、こんなことを言い残しています。
『人間は、努力する限り、迷うものだ。』
こんにちは、ヨハン・ゲーテです。
今日は、私が残した「人間は、努力する限り、迷うものだ。」という言葉について、私自身の語りとして少し丁寧にお話ししてみましょう。
人は、人生において何かを成し遂げようとするとき、必ず迷いに出会います。これは弱さの証ではなく、むしろ“努力している証拠”にほかなりません。
努力とは、今より良い自分を求め、現状を越えようとする行為です。その道の途中において、迷いが生まれるのは自然なことなのです。
私が若い頃、自らの文学をどう形づくるべきか、どのように社会と関わるべきか、常に模索していました。『若きウェルテルの悩み』を書き上げたときでさえ、自分の進む道が本当に正しいのか、大きな迷いがありました。
しかしその迷いこそが、私を成長させ、次の創作へと導いてくれたのです。
迷いとは、道を失った状態ではありません。
迷いとは、前に進んでいるからこそ生まれる“分岐点の感覚”なのです。努力せず、ただ時の流れに身を任せているだけなら、人は迷いません。選ぶべき道も、越えるべき壁もないからです。
しかし努力する人は、いくつもの選択肢と可能性を目の前に抱くことになります。どれを選ぶべきか、どう歩むべきか。その葛藤こそが迷いです。
私がこの言葉に込めたのは、「迷いを恐れる必要はない」というメッセージです。
迷うことは、あなたが挑戦し、変化し、成長し続けている証です。迷いが生まれるたび、人は自分自身を深く見つめ直し、より確かな意志や価値観を育てていきます。迷いは、あなたを弱くするのではなく、あなたを鍛えるのです。
創作の道も、人生の道も同じです。人は努力する限り、迷う。
しかし、その迷いを抱えながら前に進む者こそが、最後にはより豊かな人生と深い洞察にたどり着きます。
どうか迷う自分を否定しないでください。
その迷いは、あなたが生きようとしている証明であり、前へ進もうとする魂の動きなのです。
そして、迷いの中で歩み続けるあなた自身こそが、最も尊く、最も強いのです。
【56】フランクリン・ルーズベルト(アメリカ大統領)は、こんなことを言い残しています。
『あることを真剣に3時間考えて、自分の結論が正しいと思ったら、3年かかって考えてみたところで、その結論は変わらない。』
こんにちは、フランクリン・ルーズベルトです。
今日は、私が述べた「あることを真剣に3時間考えて、自分の結論が正しいと思ったら、3年かかって考えてみたところで、その結論は変わらない。」という言葉について、私自身の語りとしてお話ししてみましょう。
国家の運営というものは、いつの時代も複雑で、多くの判断を迫られる仕事です。特に私が大統領として務めた時代は、大恐慌と世界大戦という、人類史上でも極めて厳しい状況の中にありました。そのような状況で決断を下すには、迅速さと覚悟が求められます。
多くの人はこう思うかもしれません。「もっと長い時間をかければ、より正しい答えにたどり着けるのではないか」と。
しかし、私が経験から確信したのは、真剣に考えるという行為は、時間の長さよりも集中の質によって価値が決まるということです。
3時間、全身全霊で、あらゆる角度から物事を検討する。反対意見にも耳を傾け、事実を確認し、自分の中で徹底的に問いを重ねる。
そうして導き出した結論は、多くの場合、数年かけて熟考した結果と大きく変わらないものです。
なぜかと言えば、長期間にわたる思索は、ときに不安や外部の雑音によって判断を鈍らせることがあるからです。長く悩み続けるほど、人は自信を失い、迷いや恐れに足元をすくわれてしまうことすらあります。
しかし、限られた時間の中で強い集中と覚悟を持って思考した結論は、むしろ揺るぎがない。そこに自分自身の価値観、信念、理性がすべて込められているからです。
リーダーとは、迷わない人間ではなく、「迷いを振り払って進む覚悟を持つ人間」です。
そして決断とは、時間をかけることではなく、どれだけ誠実に、どれだけ深く向き合ったかによって重みが決まるのです。
私がこの言葉に込めたかったメッセージはこうです。
「判断は、長さではなく質で決まる。自分の魂をこめて考え抜いた結論であれば、それは信じるに値する。」
もしあなたが今、何かを決めるべき状況にあり、時間が足りないと不安に感じているのなら、どうか思い出してください。
大切なのは、“どれだけ真剣に向き合ったか”であり、“どれだけ長く悩んだか”ではないのです。
集中して考え抜いた3時間が、漫然とした3年を超えることがある。そのことを、私は歴史の渦中で学びました。
【57】魯迅(ろじん)【中国の小説家】は、こんなことを言い残しています。
『もともと地上には、道がない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。』
こんにちは、魯迅です。
私がかつて記した「もともと地上には、道がない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」という言葉は、単なる比喩ではありません。私はこの一文に、私が生きた時代、そして私が見た人々の姿、さらに私自身の願いを込めました。
私の青年期、中国は激しい混乱と停滞の中にありました。古い制度は崩れかけ、新しい考えはまだ広がらず、人々は未来を信じられなくなっていた。
そうした中で私が痛感したのは、「多くの人が前例を求め、誰かが敷いた道を歩こうとする」という傾向でした。
だが、過去の延長線上にある道をたどっても、そこにあるのは同じ絶望と停滞だけです。だからこそ私は、誰かがまず歩き出さなければならないと考えました。
地上には、もともと道はありません。道が無いとは、先例が無いということです。
誰も歩いたことのない方向を選ぶことは、不安でもあり、孤独でもある。しかし、勇気を持って一歩を踏み出す者がいれば、その後に続く者が現れます。十人、百人と歩くうちに、いつしかそこには踏み固められた道が生まれる。
道とは、「最初から存在するもの」ではなく、「人が作り出すもの」なのです。
私がこの言葉で訴えたかったのは、「希望は与えられるものではなく、自ら作り出すものだ」ということです。
誰かが道を示してくれるのを待っていれば、永遠に何も変わりません。あなたが恐れているその一歩こそが、未来の基盤となる道の始まりなのです。
たとえ最初は理解されず、嘲笑され、孤独であったとしても、一歩、一歩と進めば、やがてその足跡は「道」と呼べるものに変わる日が来るでしょう。
私は文学を通じて、人々に自ら考え、自ら動き、自ら未来を拓く力を持ってほしいと願いました。
この言葉は、その願いの象徴です。道が無ければ作ればよい。希望が無ければ自ら灯せばよい。誰かが始めなければならない。その「誰か」は、あなたであっても良いのです。
どうか恐れず前へ進んでください。あなたの一歩が、未来の道となるのです。
【58】トーマス・カーライル(イギリスの歴史家)は、こんなことを言い残しています。
『全ての大偉業は、最初は不可能なことだと言われていた。』
こんにちは、トーマス・カーライルです。
私が「全ての大偉業は、最初は不可能なことだと言われていた」と記したのは、歴史家として長年、偉大と呼ばれる人々の歩みを観察してきた経験から導き出した、一つの確かな真理です。
人間が後に「偉業」と呼ぶ成果は、完成した瞬間の輝きだけを見れば当然のように思われるかもしれません。
しかし、その始まりには必ずと言ってよいほど、嘲笑や拒絶、そして「そんなことは不可能だ」という声がつきまとっていたのです。
歴史を紐解けば、英雄も発明家も改革者も、皆同じ道を歩んでいます。
人は慣れ親しんだ世界を基準に、新しい試みを測ろうとします。そのため、目に見えぬ未来を語る者は、どうしても理解されにくい。誰も見たことのない地図を描こうとする時、人は本能的に恐れ、否定する傾向があります。
これは人間の弱さであり、同時に自然な反応でもあります。しかし、その否定の声に屈してしまえば、歴史は前に進まないまま停滞してしまうでしょう。
私が強調したいのは、「不可能」とは事実ではなく、ただの評価であるということです。
多くの場合、それは想像力の限界から生まれる言葉に過ぎません。偉業を成し遂げる者は、自分の信念と可能性に忠実であろうとする人々です。彼らは「不可能だ」という声を、未来への挑戦状として受け取り、歩みを止めません。
困難は確かに存在します。しかし、その困難こそが、後に偉業と呼ばれるものを形づくる核心なのです。
私の言葉には、もう一つの願いが込められています。
それは、人々に「最初の一歩を恐れないでほしい」という思いです。どれほど偉大な成果であっても、その始まりは一人の人間の小さな決意から始まります。
周囲に不可能だと言われても、あなた自身が可能性を信じ続けるなら、その意志はやがて現実を動かし、未来を変える原動力となるでしょう。
どうか覚えておいてください。偉大さとは、最初から確実に成し遂げられると保証されたものではありません。むしろ、不可能だと言われながらも挑み続けた者にだけ開かれる扉なのです。
あなたが今直面している挑戦も、未来から見れば偉業の第一歩であるかもしれないのです。
恐れず、自らの志に従って進みなさい。そこにこそ、あなた自身の歴史が刻まれるのです。
【59】中谷彰宏(作家)は、こんなことを言い残しています。
『ヒーローになるためには、ピンチが必要なのです。』
こんにちは、中谷彰宏です。
私が「ヒーローになるためには、ピンチが必要なのです」と言ったのは、人が成長し、輝く瞬間というのは、順風満帆のときには訪れないからです。
ピンチは、できれば避けたいものです。失敗、挫折、試練、誤解、孤独……どれも心に痛みをもたらし、自信を揺さぶり、前に進む力を奪ってしまいます。
しかし、私が人生の現場で出会ってきた多くの人々、そして自分自身の経験から確信しているのは、「ピンチこそが、人をヒーローに変えるきっかけになる」ということです。
ヒーローとは、特別なスキルや才能を持っているからヒーローなのではありません。
むしろ彼らは、他の人と同じように悩み、落ち込み、不安に押しつぶされそうになりながら、それでも「もう一歩だけ進もう」と決めた人たちです。
ピンチが訪れると、私たちは自分の本当の強さに気づかされます。普段は見えてこない勇気や忍耐力、そして優しさが、苦境の中ではじめて顔を出すのです。
大事なのは、「ピンチが来たら終わり」ではなく、「ピンチが来たらチャンスが始まる」と考えることです。ピンチがあるからこそ、私たちは選択を迫られます。逃げるのか、立ち向かうのか。諦めるのか、工夫するのか。
ヒーローは、特別な答えを持っている人ではありません。迷いながらも、自分なりの答えを選び続けた人のことを言うのです。
人生には、避けられないピンチがあります。
仕事の失敗、人間関係のすれ違い、健康の問題、将来への不安…。しかし、それらすべてはあなたがヒーローへと成長するために必要な「舞台装置」なのです。
ピンチがなければ、人は変わりません。変わる必要もありません。だからこそ、ピンチはあなたを押し潰すために訪れるのではなく、あなたの中の眠っていた力を呼び起こすために現れるのです。
もし今、あなたがピンチの中にいるなら、それは絶望のサインではありません。むしろ、ヒーローへの扉が開こうとしている瞬間です。
大丈夫、あなたなら越えられます。越えたとき、あなたの人生は必ず一段高いステージに上がっています。
ピンチを恐れないでください。ピンチは、あなたをヒーローにするためにやってきているのです。
【60】アーネスト・ヘミングウェイ(アメリカの小説家)は、こんなことを言い残しています。
『魚が釣れない時は、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい。』
こんにちは、アーネスト・ヘミングウェイです。
私が「魚が釣れない時は、魚が考える時間を与えてくれたと思えばいい」と書いたのは、人生も、自然も、思い通りにいかない瞬間があるからです。
釣りという行為は、単なる娯楽ではありません。そこには忍耐があり、静寂があり、そして人間の小ささを教えてくれる深い真理があります。
私が海で過ごした時間は、ただ魚を追いかける時間ではなく、自分自身と向き合うための時間でもありました。
魚が釣れない・・・それは、多くの人にとって「失敗」と映るでしょう。
しかし私は、釣れない時間こそが最も重要だと感じていました。魚が掛からないとき、人は焦ります。腕を疑い、運を呪い、海の神に文句を言いたくなる。
しかし、それでも海は黙って広がり、魚は自分のリズムで生きている。人間がどれほど急ごうと、自然はそれに応えてはくれません。
だからこそ私は、この言葉を残したのです。釣れない時間とは、ただ待たされているのではありません。魚にだって、考える時間が必要なのです。
人間の思惑や欲望とは関係なく、海の中では魚が生き、選び、警戒し、判断している。人間の側だけに都合があるわけではないのです。人生も同じです。物事が進まないとき、誰かが沈黙を守っているとき、結果が出ないとき・・・それには相手側、状況側の理由があります。
私が強調したかったのは、「待つことの価値」です。
釣れない時にイライラしても、状況は変わりません。しかし、視点を変えることで、その時間はまったく違う意味を持ちます。
魚が考えているのなら、こちらも考えればいい。海を眺め、自分を見つめ、何が大切なのか、どこに向かっているのかを問い直す。釣れない時こそ、心が研ぎ澄まされる瞬間なのです。
人生の多くは、自分の意志とは別のところで動いています。恋愛も仕事も健康も、すべてが自分の思い通りに進むわけではない。うまくいかないとき、結果が出ないとき、それは「止まった時間」ではなく、「熟すための時間」なのです。
風が変わるのを待つように、潮が満ちてくるのを待つように、人生にも『待つ勇気』が必要です。
もし今あなたが、何かが進まないことに苛立ちを感じているのなら、どうか少しだけ呼吸を深くしてみてください。
その停滞は、あなたを妨げるために起きているのではありません。むしろ、よりよい未来のために必要な時間なのです。
魚が釣れない時、それは海があなたに「考える時間」をくれているのです。
(当サイトの情報は医療行為に代わるものではありません。詳細は免責事項と注意事項をご確認ください。)






